サッカーの話。
正直、まるで興味がなかった。私にとってのサッカーは、祖母が暮らす町にあった
「Jヴィレッジ」というサッカー練習場だけ。この施設は、今年の福島第一原発の事故以降、すっかり有名になってしまった。原発作業員の拠点となり、テレビやネットで見る限り私が知っているJヴィレッジの面影はすべて消えた。そこには放射能で汚染された大量の防護服が山となり、戦車があった。もう、Jヴィレッジでサッカーをすることなんて二度とないのだろうし、私も祖母もきっと二度と訪れることはないだろう。Jヴィレッジは第一原発からギリギリ20km圏内なのだ。祖母は「古里の サッカー場は 夢の跡」という川柳を読んだ。緑の芝生を見ると、懐かしい古里を思い出してしまうという。
86になる祖母もまた、サッカーのことはよくわからなかったけれど、Jヴィレッジに訪れたトルシエ監督のことと、2002年のFIFAワールドカップの際にアルゼンチンチームのキャンプ地になったことで、よく「トルシエ監督」「アルゼンチンのサッカーチーム」という言葉を口にしていた。
以前ここにも書いたが、田舎に帰ると必ずJヴィレッジで祖母と食事をした。なにもない海辺の田舎町にJヴィレッジができたのは1997年のことで、震災後に初めて東電が作った施設だと知った。第一原発に原子炉6つ、第二原発に原子炉2つ、さらにそのお隣りにもまだ原発を作る計画があった(今年3月末、東電はその計画を推し進めると発表して強い反発があった。当たり前だ)。危険な原発をたくさん作った代わりに、なにか地元の人が喜びそうな施設を作ろうということだったのか。
Jヴィレッジ内のレストランで料理長を務めていた西芳照さんは、本当に祖母によくしてくれた。いつだったか、私が突然電話で「祖母の誕生日を祝いたいので、バースデーケーキを作っていただけないでしょうか」と無茶なお願いをしたときも「コウさんのためなら喜んで!」と、金粉で彩られたケーキを作ってくださった。後から知ったことだが、西さんのご実家は祖母の妹宅とお隣りさんで、「お隣りに男の子が生まれた!」と西さん誕生の時から知っていたのだとか。そのこともあって、祖母は西さんを「よしてるちゃん」と呼んでいて、夏に私の家に滞在したときも、まず最初に西さんに電話をかけていた。西さんが祖母を心配してくださったように、祖母もまた西さんのことが心配でならなかったのだ。
今年5月に西さんの著書
「サムライブルーの料理人」が発売され、さっそく読み終えた祖母は出版社に宛てて感想を投書した。そのハガキは、編集部から西さんご本人の元に届き、ある晩突然、祖母が避難していた東京郊外のマンションを訪ねてくださったという。「コウさん、ご無事でしたか」と、お米を5kg抱えて。
西さんは一時は東京に避難していたようだったが、現在はJヴィレッジに戻ったと聞いた。「Jヴィレッジに戻って料理を作っている」と聞いたときは、一瞬信じられない気持ちだったが、冷静に考えると原発作業員の方々のために食事を作れる人は西さんしかいないのかもしれない、とも思う。なにせ、ニュースで知る原発作業員の労働環境の悪さは極めて酷かった。特に食事。20km圏内で食料を調達することはほぼ不可能、食べるところもない。なにせ「死の町」なのだ(「死の町」ということばをあえて使いたい。実際その通りなのだから)。その町へ戻って料理することを決意した西さんの著書を、私も祖母に習って読むことにした。
その本は、サッカー日本代表チームの帯同シェフとして活躍する様子が丁寧に書かれていた。西さんの地元で作ったお米はつまり、私がいつも食べていたお米だ。そのお米を、日本代表選手も食べていたと知って、サッカーというものにほんの少し興味を持ち始めた。そして、読めば読むほど、西さんのご活躍を同郷としてとても誇らしく思った。
ちょうどその頃、横浜F・マリノスで仕事をする機会があった。マリノスのホームスタジアム内の施設で新聞バッグ親子教室が開催され、私もインストラクターとして参加したのだ。そのときに、サプライズとしてやってきたのが、中村俊輔選手だった。いくらサッカーのことを知らない私でも、中村選手だけは知っていた。なにせ、ちびにそっくりなのだ。実際、そっくりではあったけれど、大きな筋肉質の体は圧倒的な迫力があって、とても格好良かった。歩くのも辛そうなほど片方の足を引きずっているのに、練習に来たのだという。プロのサッカー選手のすごさを目の当たりにした瞬間だった。浮かれてサインをいただいたときに、Jヴィレッジのレストランに飾ってあった中村選手の写真が頭を過ぎったけれど、ことばが出てこなかった。
サッカーの試合も見たことがない私が、急にプロのサッカー選手という職業に興味を持ちだし、今までは絶対に手にとることのなかったスポーツ選手の本を買った。それが今年ミリオンセラーとして大きな話題になった長谷部誠選手の
「心を整える。 勝利をたぐり寄せるための56の習慣」だった。中村俊輔選手の試合を見たいという思いに加え、長谷部選手の試合もいつか見たいと思うようになった。我ながら単純だ。
先日、茨城県結城市にスピッツのライブを見に行ったときのこと。誘ってくれた友人に、なんとなく「最近ちょっとサッカーに興味が」という話をした。彼女に会うのはいつもスピッツのライブで、この時は約3年ぶりの再会だったと思う。ライブ帰りに食事するときだって、いつも当然スピッツの話が中心だった。ところが、先日は違った。彼女は鹿島アントラーズの熱烈サポーターでファンクラブにも入っていたのだ。私の幼稚な疑問にも、すべて完璧に答えを返してくれた。サッカーの話で盛り上がったのは、人生でこの時が最初だった。
良くも悪くも興味を持つととことんハマってしまう。長谷部選手の試合を見るにはどうしたらいいか、所属するヴォルフスブルクの試合を見るにはドイツに行かないといけないのか──。ヴォルフスブルクという町を調べたら、ベルリンから電車で1時間。行ってみようかなと思った。試合のチケットは日本から買えるのか──。オンラインで買って、メールで送付されるPDFファイルをプリントすればいいらしい。そもそも20:30開始の試合だと、終電に間に合うのか、氷点下の寒さに耐えながら応援できるものなのか、ユニフォームも着るつもりはないし、地元の熱烈サポーターがコワイ‥‥。いや、ドイツ以前に、まずは日本で試合を見て予習しておくべきだろう。ふりだしに戻ってしまえば、私はドイツでサッカーを見るレベルではまったくないのだ。ドイツ語のサイトを翻訳しながら読みふけって朝になる。私はどこか遠くに行きたいだけなのかもしれない。
本当に私はサッカーを見たことがないのか、改めて思い返してみた。2002年に日本でワールドカップが開催されたときは、周囲が夢中でテレビを見ている間、猛烈に仕事をしていた。とにかく仕事して仕事して仕事して、最後には壊れてしまった頃だ。去年の南アフリカ大会は、テレビからブブゼラの音が聞こえた瞬間、チャンネルを変えていたので1試合どころか合計して10分も見なかった。そういえば、以前ロンドンを訪れたときにイギリス対フランスの試合を近くのパブで見た記憶がある。ギリギリのところでフランスが逆転勝利して、パブにいた人たちの意気消沈の空気を肌で感じた。それは試合を見たというより、パブの空気を楽しんだという感じだった。ロンドンからアムステルダムに戻るとちょうど夕暮れ時で、テレビでオランダ戦が放送されていたこともあって、窓という窓から悲鳴に似た声援が聞こえていた。町中がオランダのチームカラー、オレンジ色で染まっていた。
町の中央にあるダム広場に出かけたら、アヤックスという地元チームの優勝イベントに遭遇したこともあった。サッカー好きの友人がアムステルダムに遊びにきてくれたとき、アヤックスのホームスタジアムに行ったこともあったけれど、その頃はサッカーというものが11対11で戦うスポーツだということすら分かっていなかった。考えてみれば、サッカーは結構身近にたくさんあったのだ。何人かの友人から早速「やっとわかってくれたか!」「興味を持ってもらえてうれしい!」と言われた。ようやく私の中で、サッカーのアンテナが立ったらしい。2011年は私のサッカー元年になった。
